「夏」 環

 

 

    ジージージーゥ…

 

    鼓膜に蝉の便りが届く。額から発生した大量の雫が、一部は眼球に、その他は眉間、頰、口を通って地面へと向かってゆく。

    不快だ…

    意識は朦朧していると言っても遜色ない。いまの「不快だ…」も口から発生したのか、はたまた脳内で喚いている様々な文言の中の一部にすぎないのか、それすらも判別がつかない。不快だ…。

    そもそも、そもそもだな、天気予報できれいなお姉さんが困り顔で「明日は一日中暑くなりそうです…。外での作業はできるだけ控えるようにしましょう!」とか言ってる状況でこんな仕事にか弱い女子高生を駆り出すのは実に道理から離れている。鬼畜の所業だ。おそらく発案者はアイヒマンの生まれ変わりに違いない、来世でプラナリアになっていただこう。死ねない苦しみを味わいながら自分の行いを反省しろ。

「何やってんの」

    頭上から突然声が降ってきた。

「特にこれということは」

「あと十分くらいで集合だって。これゴミ袋。」

 そう言って部長は市指定の白濁色の薄っぺらな袋を託して他の部員のところへまた向かっていく。

 

 うちの高校は、というより私が住んでいる市内の学校は大抵慰霊碑を所有していて、もちろんその管理は生徒にほぼ丸投げされている。学校の敷地内にあるならまあまだ文句を垂らしながらでも草むしりぐらい善意でやってやろうじゃないのという気落ちになるが、うちの慰霊碑はなぜか、市内のど真ん中に位置している。毎年この季節恒例の一斉清掃のためにある人は余分に交通費を払わされ、ある人は普段よりも長い時間をかけてこのほぼ亜熱帯気候の中を自転車で走らされる。もっとも最悪なのはその肝心の清掃場所である慰霊碑の周囲には木陰等、日を遮ってくれそうなものが存在しないことだ。かろうじて日陰が存在している道路の向こうに続々と清掃離脱者が集っていく。

 明日は市を挙げた大きな慰霊祭がある。私の高校の慰霊碑はその会場の真ん前故、喧騒の影響を直に受ける。怪しい黒いボックスカーはずっと慰霊碑の周辺道路をウロウロしているし、何かに強い反対の意思を持った集団は大きな段幕掲げて行進しているし、もっと狂った集団は公園内で座り込みしているし。

    ジージージーゥ…

    蝉の喧騒も相変わらずだ。

    とりあえずしゃがみこんで適当に草むしりしているふりをし続けていたら、再集合の時間が来たようだ。向こうの方からよく通る声で部長の呼ぶ声が聞こえる。

 

 

    「えー、我が高校が所有していますこの慰霊碑、もちろんみなさんはこれが建てられた経緯はご存知でしょうが…」

    こういう慈善的な行為には御偉方の挨拶が必要だ。その行為が、社会的に意義があって、「私たちは良いことをした」という意識を刷り込ませるために。そんな手法が通じるのは小学生まで、もしくは意味を深く考えず発言する低脳たちだけに限られるよなぁ、なんて気軽に炎上しそうなことばかり考えてしまう。

    今日召集された生徒はほとんどが運動部のようだ。炎天下の中毎日激しめに運動している専門職の皆さんでさえ、御偉方のお話の最中の無駄話を叩く余裕がないようだ。

 

    ジージーゥ…

 

    終わらない御偉方のお話

 

    ジージーゥ…

 

    黒いワンボックスカーの主張

 

    ジージーゥ…

 

    拡声器からの罵詈雑言

 

    ジージーゥ…

 

 

作者コメント

 色々作りはするもののいつも人目を忍んでしまうので、この悪癖を治すいいきっかけになれば良いなと…note頑張って更新しますのでよろしくおねがいします

 「夏」は浪人期に突発的に書き始めてマッハで飽きたものです。固有名詞は使わないぞという強い意志で当時は頑張っていました オチもヤマも何もありませんが…

 最後になりましたが、こんな素敵な活動をされている未完文芸サークルさんの今後益々のご活躍をお祈りしております みんなも押入れを漁ってみよう…

note https://note.mu/eheeahaha(スッカラカン

 

考察

 むせかえるような夏の日、長期休暇の真っただ中にもかかわらず、学生たちはある「式典」のために召集されます。その式典は国際的にも注目され、多くの人々が集まり、一見厳かに行われているのですが……。といった説明を聞いて「ピン」と来た人は、おそらく作者と同郷です。

 主観的な視点を表現するために、一人称視点を保ちながら固有名詞を極力使わないで書く、という工夫によって、「わかる人」には、じわじわと灼けるような夏の景色が浮かび上がり、終わらないセミの声も手伝って共感が呼び起こされます。しかし、作者は納得がいかなかったようで、未完の作品として発表することになりました。

 環さんは、「自分にとってあまりにも当たり前の事すぎて、そしてどこからどこまでが世間一般の事ではないのかが分からなくなり、書く気力が消失しました。」と述べています。主観的な視点から固有名詞を使わずに表現するにあたって、どの程度まで情報を隠してよいのか分からなくなってしまった、ということでしょうか。

 こういった苦悩は、一人で創作するときには必ずと言っていいほどついて回るものでしょう。このオチは驚くべきものになっているだろうか、伏線があからさますぎないだろうか、この話は読者に伝わっているのか……。「夏」の構造は先ほども述べたとおり、「わかる人」には面白いものになっています。しかし、「わからない人」にとってはどうでしょうか?

 

 ある種常套句のようになっているのですが、「第三者の意見を聞こう」というアドバイスがいたるところにあふれています。そして、それが効果的である、ということは想像に難くありません。初見の反応をうかがうことによって、内容は伝わっているか、工夫が成功しているか、といったように、作者だけではわからないことを知ることができます。

 なぜ当たり前のアドバイスがあふれているのかと言えば、やっていない人がたくさんいるからであり、なぜやらないかと言えば、自分の作品を(ましてや完成前の作品を)人に見せることのハードルが高すぎるからです。見せるのが恥ずかしいし、そもそも見せるのにちょうどいい相手なんて、なかなか身近にはいません。

 見る側になって考えてみても、これはかなり大変です。勇気を出して思い切って、自分のことを信頼して作品を見せてくれたとして、「悪いところは遠慮なく言ってね」と言われたとして、何をどう言えばいいのでしょうか。言葉を選びに選んで、濁しに濁してしまいそうです。

 そういうわけで世の創作者たちは、だれにも見せることなく作品を作ります。そして、時間をかければかけるほど、「これのどこがおもしろいんだ」という沼にはまり、やがて作るのをやめてしまいます。その中にダイヤの原石が眠っていたとしても、作者以外に見られていないのでは、分かりようがありません。

 

 この問題の一つの解決策として、「読者を完全に無視する」というものがあると考えられます。すべてを知っているのは自分だけ、という思いで作ってしまって、「わからない人」が何を言おうが耳を貸さない、という作戦です。

 そもそも、読書をしたときに作者の意図を100パーセントくみ取れる、という人が、いったい何人いるでしょうか。読書というものは、パロディや比喩のすべてが理解できなくても十分に楽しめるものですし、全員が理解できることを求める必要は、もしかしたら全くないかもしれません。

 「いったい何の話をしているのだろう」と頭をぐるぐる動かしながら、自分なりの考察をする。そして、そのうちにぼんやりと答えが見えてくる(あくまでぼんやりと)。そういう楽しみ方があります。

 あるいは、特定の地域や文化に関するニッチなネタを見て、それがわかる自分に酔いながら、作者に「分かるよ」と語り掛ける、という楽しみ方もあるのです。

 作者にしてみればめちゃくちゃな、あまりに的外れな考察であったとしても、読者にとってはそんなことは関係ないですし、作者が歩み寄らなくても勝手に楽しんでいたりします。

 

 「夏?慰霊祭?ははーん……。市内の高校だな?どうやらあの高校らしいな……。おいおい、俺はわかるからいいけど、広島県民以外にはピンとこんじゃろ……。」そうつぶやく私の口元はいやらしく吊り上がりました(考察の序盤にその態度がにじみ出ています)。

 このタイプの小説は「読者完全無視作戦」で進めて、完成まで持っていけるのではないでしょうか。もしかしたらまったく伝わらない人もいるのかもしれませんが、それはどんな小説でも同じことです。

 環さんの母校が、実際には長崎でも、あるいは沖縄でも(もしくは、そのうちのどれでもなくても)読者は勝手に想像して、勝手に楽しんでいると思います。皆さんはどうでしたか?