「クソ」 穂

 

野糞をした。嘘ではない。文字通り野外で糞をした。18年間生きてきて意識上初めてである。

友人との食事中から腹は決壊寸前ではあったが悪いことにカフェの個室は1つ。なんとはなしに憚られて、あと30分ぐらいなら耐えれるだろう、友人を送るまで持てばいいぐらいに思いカフェを出た。

せっかく帰省した友と2時間で別れるのは何か惜しい気がしてバス停まで送ろうということになった。バス停の近くには大型ホームセンターがあり、そこならトイレもあるだろうという思いもあった。

しかしバスは一向に来ない。私はその時の会話をほとんど覚えていない。終始中腰で虚ろな顔で笑っていた気がする。

ようやくバスが来てホームセンターのトイレへと思ったところで、近くに墓場があったことを思い出す。ここの墓場はそれなりに綺麗で、無料休憩所というのがあってそこにトイレがあることを思い出したのだ。私は進むたびに溢れそうな腹を抑え、奇妙な内股でヨタヨタ歩きながら死にそうな顔で無料休憩所へ向かった。

休憩所のエレベーターのボタンを押すと中は光るのに扉は開かない。扉には、四時施錠の文字。今は四時十五分であった。

私はなぜ友をバス停まで送ったのだろうと心から悔やんだ。時すでに遅し。気の緩んだ私の腹は言うことを聞かない。ここで私は致した。

とっさの判断でティッシュペーパーを地面にひいた。誰かが見ているのではないかと気が気でなかった。

事後の処理に大変悩んだ。下に引いたティッシュのおかげで直に触れることは免れた。なんとか側の植え込みに捨て、肥やしになれと願った。すこし溢れた分は今夜の雨が流してくれると思った。

使ったティッシュをどこに捨てるか迷い、友達がくれた東京土産の包み紙で包んだ。私はなんとも悲しい気持ちになった。

ここは先祖の眠る墓地であった。友を裏切り、先祖を辱め、私はなにをしているのだろう。墓石を洗うはずの水道で汚れた手を洗い、友のくれた包み紙を人差し指と中指でほんの少しつまみながら、俯いて墓地を歩いた。

途中ゴミ箱がいくつもあり捨てようと思った。しかし友のくれた気遣いと先祖の眠る墓に私の排泄物を捨てるということがなんとも苦しく、ゴミ箱の蓋を開けては閉めるを二回繰り返した。ゴミ箱の中には雨水だけがあり、それが余計に私を虚しくさせた。いっそ漏らしてしまえばよかったとまで思った。風呂に入って洗濯して仕舞えば元どおりだった。もしくはホームセンターに行っていればよかった。後悔先に立たずとはまさにこのことである。

墓地の出口にある、最後のゴミ箱にとうとう負けた。私は友と先祖をいっぺんに裏切った。調べれば野糞は軽犯罪のようである。私は罪人である。この罪は一生かかっても償えぬ。野糞の呪いである。

 

コメント

去年の夏の大失敗を自分の中で何か意味付けするために書いたものです。あまりのショックで文章にしないと涙が止まらなくなってしまって書いたような記憶があります。未完と言うよりは内容が内容のため誰にも見せれなかった作品です。文章にするというのはなにか頭から思考を抽出してそのまま捨ててしまえるような、そういうもののような気がします。是非なんだこれはと思いながら笑い話だと思って私の思い出を一緒に供養してください。

 

考察

完成させているという一文が引っ掛かり、どうにも掲載できなかった作品です。この度の方針転換によって発表に至りました。

失敗談にしてはハードすぎて、匿名であってもブログやnoteには掲載しづらい性質を持っていると思われます。ただ、他に類を見ないテーマ力も同時に有していて、なかなか無視できない「私小説」だと感じました。これをエッセイなどと表現するといろいろと問題が生じるというか、そういうわけなので完全なるフィクションとして楽しみましょう。

そういうわけでこの作品は現実世界とまったく関係をもたず、そこからわかるように主人公と作者もまた、切り離されます。

 

小説を読むとき、読者は書かれていること以上のことを想像できますが、それは書かれていることから類推できなければならないと私は考えています。作者はこういう人柄なんだろうな、などと、読みながら思うのは失礼であり、そういうのは読んだ後にしみじみと考えたほうがよいのではないかと思うのです。

 

(もちろんちょっと読みづらい部分を「読みづらいな」と思うのは当然でしょうが、

「地面にティッシュ?ああ、アスファルトの上にいたのか」

「近くの墓地って、ホームセンターより近くにあるっていう認識でいいんだよな」

というように、少し言葉足らずな部分をただ断じるばかりで読むのをやめるのではなく、それに微笑んでもっと奥のテーマを読み取ろうとする意識を読者の側が持っていれば、世の中の創作のハードルはより下がるのではないでしょうか。)

 

たとえば、未発酵のし尿を肥料として作物に与えると、大量に含まれた有機物によって地中の微生物が過剰に活性化して窒素が欠乏し、根腐れを起こすので、肥溜めの無い現代日本において、野ぐそは草木の目線から見ても完全なる罪ですけれども、これを理由に「作者はこれを知らなかったのか」と言ってしまうのは意地悪で、ここでは「『私』は草木に対して、脱糞する苦し紛れの理由を作ったが、それは科学的事実に反している」というむなしさとか悲哀を感じさせており、一人称視点をたもって語られる作品の性質上ここで科学的事実を語らないのも余情があってよい、という風に解釈しました。

もちろん無批判にすべてを受け入れるのはよくないのですが、ゆとりを持った目線で観察すれば、多少粗削りなものからであってもポジティブな学びが得られるはずです。

 

出だしこそインパクトが爆発している小説ですが、そこに戸惑わずにじっくりと見ていけば、別に正直に言っても誰も嫌な思いしないのに、意識しちゃって変な気を遣うあたりにあるあると思ったり、一方で個室が一つなことが理由になるのちょっと分かんないなと思ったりするなど、他人の心の中をのぞき見していくちょっと素朴な楽しみもあって、ほほえましい気持ちになるかと言われればそんなことはないけども、楽しく読める「私小説」でした。

 

もちろん脱糞はしないほうが良いし、その経験を素性のわからない人間に送ったりしないほうが良いとは思いますが、穂さんの勇気に免じてここは一つ水に流しましょう。